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1991年(25歳)
----- 福島 -----
1990年 結婚(24歳)
転職先での住居は施設の敷地内にある社員寮だった。
2DK(4畳半+キッチンと6畳)で、月/5,000円(光熱費込み)だったので、安月給の私にはありがたかった。
給与のスタートは基本給11万円、手取りで86,000円だった。
結婚と同時に妻も同じ職場で働くようになり、とりあえず、生活に困るようなことはなかったが、裕福と言えるような状態でもなかった。
給料は安かったが、休みはとても沢山あった。
利用者さんが夏季・冬季の帰省期間に入ると、直接処遇職員は特にやることもなくなってしまうため特別な休暇が設けられたりしていた。
家庭の事情で自宅に帰れない子どもがいたりすると、施設長が自分の家に連れて行ったりして世話をしていた。
会計職であっても、他の職員と整合性を取るため、休みが分散されて与えられていたのだ。
魚釣りが好きだった私にとっては、お金よりも休みの方がずっとありがたかった。
1991年 父が仕事中にダンプにはねられ全身打撲・脳挫傷の重症を負う。
仕事中に母から電話を受けた。
「ちょっとバイクで転んで怪我をしたから病院に来てくれないか。たいしたことはないから慌てないでゆっくり来て大丈夫だ」
これは、大変なことになったなと思った。
母が私の職場に、しかも仕事中に電話をよこすということは、それ自体が緊迫していることを知らせていた。
気が動転しそうになりながらも、上司に許可をもらってすぐに病院に向かった。
父はICUに入っており、許可がなければ面会もできなかった。
すぐに担当医から説明を受け、手術できる部位ではないため、現状のまま手の施しようがなく本人の生命力を信じるしかないと言われた。
面会の許可が出て、父の顔をみようとしたが、どこが顔だかわからないほどにひどい状態になっていた。
しかし、手の甲は、確かに父の手だった。
自分も高校生の時に同じ顔を兄と母に見せてしまったのだなと、改めて絶望的なものをみせてしまったことを申し訳なく思った。
私だって助かったのだ、あの丈夫な父が死んだりするわけがない。
翌日の夜だったろうか、今夜が峠ですと医者から伝えられた。
その日の深夜のことだ、父がベッドの下で倒れていると言われて病室に入ってみると、部屋の隅のごみ箱に排便し、倒れたていたのだ。
兄も来ていたのだが、笑っていいのかなんなのか、わけが分からなかった。
顔もわからないような状態になったままで、よく自分で起き上がりそんなことをしたものだと、病院スタッフも家族も皆が驚いた。
こんな事ができたなら、この人は絶対に生き抜くと兄と母と3人で確信した。
翌日の朝には担当医から、「峠は超えましたたぶんもう大丈夫でしょう」と話があった。
それから先は、日を重ねるごとに劇的な回復を見せた。
しかし、体は回復しても脳挫傷による精神への影響はとても大きく、特に理性の部分の欠如が深刻だった。
また、てんかん発作を起こすこともあり、目が離せないような状態が続いていた。
大声で怒鳴ったり、家に帰ると暴れたり、兄が居なければどうしようもないような状態になっていった。
茨城に転勤したばかりの兄であったが、地元への転勤希望を出し、兄はそれほど間を置かずして実家に戻ってきた。
精神疾患に対する様々な勉強をしてきて、また、施設でも安定剤の血中濃度による影響を十分に理解していたつもりであったが、父の部分的に壊れてしまった脳が、精神面に与えた影響は、想像を絶するものだった。
薬の量が多ければ笑顔が消えて、食事もしなくなってしまう。少し減らすと、大声でどなって、飯を食わせろと大騒ぎし、満腹感もないことから、食べ終わるとすぐにまた食事をさせろと騒ぎ出すといった具合だった。
もう、事故に遭う前の父の姿はそこにはなかった。
何度か、いい状態と悪い状態を繰り返しながら、少しずつ安定していった。
そのうち、怒ることもあまりなくなり、意味もなくヘラヘラと笑っているようになり、みんなから「いつも笑っていていいね」と言われるようになった。
そんなのは父本来の姿ではなかった。
何度も思う。
考えても仕方のない「もし」
父の勧めで診療所に勤務した。
私が勤務中にわざわざ事務長の所に保険の募集に来て、迷惑そうにしている事務長に向かってニコニコと笑って仕事をしていた父。
私が働いている姿を見るのがよほど嬉しかったのだろう。
あと1年でも臨時期間を我慢していれば、
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