病気と私 44 股関節

誤字脱字等、その他本文のおかしなところは、随時修正していくつもりです。

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よろしくお願いします。


1987年 夏

----- 仙台 -----


1986年の夏に有楽町の大きな喫茶店でウェイターをやった。

4人掛けの円卓が、20以上ある大きなホールだった。


高校生の時から、珈琲が好きで、郡山駅前の喫茶店にはよく通っていた。

ブルマンが美味しかったので、いつも飲むときはそれだった。

帰りには、豆で買ってきて、自分の部屋でサイフォンを使うのがとても楽しかった。

ガスで使うと、沸騰するのもすぐなので、あっという間にコーヒーになるが、アルコールランプで水から沸騰させるとなると、結構な時間がかかって、音楽を聴きながら眺めているのも、なんとも穏やかでいい時間が流れた。

沸騰してくると、ガラスで沸かされたお湯の音が、またなんとも言えないいい音を出す。


父が高校を卒業する時に、喫茶店でもと言ったのは、私のそういうところを見ていたからかも知れなかった。

私は喫茶店のマスターに憧れていて、いつかあんな仕事ができたらいいなと、ずっと思っていた。


有楽町でのウェイターの仕事は、仕事を覚えてくにつれ、どんどん楽しくなっていった。

自分の姿がカッコいいと初めて思った時だった。

銀のトレンチに飲み物をのせて、大きく手を振りながら大股で歩いても、まるで張り付いたようにトレンチから動かないグラス。

音を立てずに、すっとテーブルに差し出す飲み物。

動作の一つ一つがとても優雅に思えて、いわゆる自惚れ?の状態になっていた。


しかし、3ヵ月も経たないうちに、ホールでは歩けなくなり、リキュールを作ったり、ホットチョコレートを作ったりと、ドリンクコーナーを任されるようになってしまった。

結局、有楽町まで通うことも難しくなり、アルバイトはやめることになった。


年が明けてから、足の状態もだいぶよくなり、小さなお店でならウェイターを続けられるかも知れないと思い、下宿近くの小さな喫茶店で再びアルバイトを始めた。

入り口は道路から段差なしで入れて、そこに2人掛けのテーブルが一つ。

階段を5段ほど上がった奥の部屋には大テーブルが置いてあって8人程度が利用できた。

紅茶がメインのお店で、店の奥には映写機とシネマスクリーンが置いてあり、ダウンライトで手元が見えるぐらいで、全体的には暗い店内になってた。

環境ビデオや、映画などを流していたが、基本的に音声はほとんど出さず、映画は字幕を見ながら楽しむといった感じになっていた。

お客さんが一人しかいない場合には、他のお客さんが来るまでと言うことで、希望によって音声も流したりしていた。

お客さんはそこでのんびりと時間を過ごす人が多かった。


日中の店員は私一人だったし、お客さんがほとんど来なかったので、来たお客さんが話しかけてくれば、仕事そっちのけで話し込んでしまい、妙に仲良くなってしまう人も、ぽつりぽつりと出てくるようになった。

夕方の忙しくなる時間の前には、スタッフが出勤して来た。

そのまま少し手伝って、帰っていいと言われれば、そこで終了という感じで、3か月間ぐらいはそこで働いた。


その後、引っ越しと同時にバイトはやめてしまい、喫茶店での仕事はそこが最後になった。


有楽町の喫茶店で働いていて、歩けなくなった原因は、股関節の内出血だった。

普通に歩いて学校に通うのが難しくなってしまったので、しばらくの間は、松葉杖を使って学校まで通っていた。


股関節は大きな関節なので、最初の頃は急に歩けなくなるほどの痛みは出なかった。

筋肉痛なのか、内出血なのか、痛みの判断がつかなかったのだ。

臀部の上のあたりを押すと痛かったので、筋肉痛だとしか思っていなかった。

そのため、痛みで立てなくなる頃には、関節の状態がかなり悪化してしまっていたのだ。


バイト先を変えてからは、出られるときだけでいいと言われていたので、あまり無理をせずに、具合の悪い時には休ませてもらっていた。

それでも、股関節の内出血は何度も起こり、そのうち松葉杖を使わない状態では歩くことができなくなってしまった。


股関節は、加重調整ができれば、動かすことは可能だったので、トラウマとはなっていたが、自転車を購入して、自転車で学校まで通うことにした。

自転車には、松葉杖を持った状態で乗らなくてはいけなかったので、肩に当たる部分の空白をハンドルに差し込んで、先を肩に乗せてペダルをこいだ。

ママチャリでも、ドロップハンドルの自転車でもだめだったので、叔父さんに相談して使えそうな自転車を探してもらい、これならいけそうだという一文字ハンドルの自転車を買ってきて使い始めた。


電車を使えば駅の構内を歩かなくてはならず、階段の昇り降りは松葉杖では大変だったので、都内のどこに行くにも自転車を使った。

1時間かけて目的地まで自転車で向かうことは、構内の階段を使うことを考えれば、何の問題にもならないほど楽だった。

学校の実習や、学会の会議などに参加する時も、行ける場所は全て自転車で行った。

電車と違い、公園を抜けたり、川沿いを走ったりと、色んな景色が楽しめてとても楽しかった。

私の自転車は、雨ざらしだったが、いつも油を差して手入れをしていたので、ピカピカだった。


1987年(20歳) 夏

そのうち、左肘が痛くなったり、肩が痛くなったりと、松葉杖を使っていた影響が他にも出始め、西多賀病院の主治医に相談し、整形外科の治療でどうにかならないか診てもらうことにした。

検査結果では、股関節の軟骨が内出血により破壊され、骨盤と股関節の隙間がほとんどなくなってしまっていた。

先生が言うには、血友病患者の股関節の軟骨は、安静状態を続けることで生成されることがあるということだった。

できれば3ヵ月~半年は安静が必要だということだったが、夏休みが2ヵ月しかなかったため、とりあえずその期間を安静にして過ごすということで、入院治療をすることになった。


結局2ヵ月では足りずに、学校に相談して卒業できるギリギリまで休ませてもらうということで、更に2週間入院を伸ばして安静を続けた。


退院時のレントゲンでは、確かに入院時より隙間が増えていた。(軟骨が再生されたのだ)

その間、内出血もまったくなかったので、松葉杖なしでも歩けるようにはなったのだが、今度出血して股関節を悪化させてしまったらもう面倒は見ないと整形の先生に言われ、松葉杖は、継続して使うことでようやく退院の許可が出た。


松葉杖の使い方は、通常は肩に負担をかけない方法で使うのだが、肘関節と肩関節も痛んできていたため、足への加重もゼロにするということではなく、それぞれの関節に負担をかけすぎないように、バランスを取りながら使うことにしていた。


この入院のおかげで、自己注射に磨きがかかった。

最初は、手の甲にしていたのだが、、肘でも前腕でも、静脈の出る所ならどこにでも刺せるようになった。


何も考えずにただ遊んでいられる学生最後の夏休みを病院で過ごしたのは不本意ではあったが、これもまた自分の人生には必要なことと諦めるしかないし、何でも相談できる主治医が居る病院は、何処よりも安心できる場所であったことは間違いなかった。


食べることの心配もなく、体の心配もすることなく、ただ寝て起きていられる。


隣のベッドには、中学の時に一緒に入院していた2つ上の先輩も入院しており、同じく股関節が具合悪くなって入院していたのでいろんな話をすることができた。

電話をくれた同級生も来てくれた。

先生とも、同じ病気の仲間とも沢山話ができた。


みんな同じなのだ、自分だけが苦労をしているという愚痴はこぼせない、病気に対してだけは甘えられない状態になることも心地よかった。

その代わりに、一人じゃないという安心感があった。

病気のことで愚痴なんて言おうものなら鼻で笑われて終わりだ。


もしかすると、体だけのことではなく、私自身がそこから先へ生きていくことを考え直すには、ちょうどよい機会だったのかもしれなかった。


退院して東京に戻ると、駅の出入り口にチェーンで縛ってあった自転車がなくなっていた。

松葉杖をついてようやく階段を上ってきたのに、またそこからマンションまで、松葉杖で歩いていかなくてはいけなくなった。


ガードレールに張り紙があり、市の回収車が持って行くと書かれてあった。

市役所に連絡して、住所と名前で問い合わせをすると、保管してあるということだったので、タクシーに乗って保管所まで向かい、自転車を受け取り自転車でマンションまで帰ってきた。


自転車には、警告のシールが何枚も貼ってあり、随分と迷惑をかけてしまったと反省した。


生きるの死ぬのと大騒ぎし、人生最大の危機を乗り越え、大人になったつもりでいても、こんなくだらないことで人に迷惑をかけるぐらい、まだまだ考えは浅はかなままだなと思った。


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うさねこまったり

豪雪地帯の田舎に古い家を買い、うさぎとねこと暮らしています。 主な内容は、ウサギとネコの動画と、病気と付き合ってきた自分史になります。 動画は、Youtubeにアップロードした動画の紹介になります。 ※コメント欄はご自由にご利用ください。

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