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1985年秋(19歳)
----- 東京 -----
やまびこ親の会(現やまびこ親の里)では、現在施設を運営している。
当時施設を作ることに先生も関わっていた。
先生は、親が一人100万円出せば、50人で5,000万、100人で1億になると言っていた。
それと、一般的に子どもが成長し、高校、大学と進めば400万も500万もかかることになる。
何故親が子どもを大学に行かせるのかと言えば、将来安定した生活を送り幸せになってほしいと願うからだ。
では、自閉症の子どもならどうなのだろうか。
何も変わらない。親としては子どもの幸せを願うだけだ。
もし、施設が完成し、理想的な自閉症児の教育が提供できるようになるとすれば、それは大学に進学させることと同義ではないか、
そればかりではない、24時間体制の入所施設が設立できるなら、将来の家を購入するに等しいではないか。
日本では障がい者の地域移行は、この当時ではほとんど進められておらず、いかに良い施設を作るのかということをみんなが考えていた時代だ。
バンクミケルセンがノーマライゼーションを提唱したのは、離島に隔離された施設での非道な行いの原因が、社会から隔離された場所では、どうしても強い人間が弱い人間を支配し、虐待行為を行うような状態になってしまう。それを防ぐには、一般社会の中で、誰もがその姿見ることができ、誰がそこにいても、そこに居ることが当たり前の社会を作るしかないという結論に至ったためだ。そしてその考え方に、世界中の福祉関係者が賛同したのだ。
その観点に照らし合わせれば、親が職員を監視するという環境は、社会の目が届かない場所での非道な行為を防止するという点において、かなり有効であるし、自分の子どものことであるなら、より良い支援システムの構築に手抜きも妥協もなくなるという利点がある。
本来、施設を作ることに関しては国家主導、地方自治体主導でも構わないが、運営自体は障がいを持つ人自身の手に委ねるべきことで、それをやってこなかったことの歪が、いろんな形で出てくることになる。
あらゆる意味で、やまびこ親の会がやろうとしていたことは、日本の施設の先駆けとなっていたのだ。
「自分たちの子どもを幸せにしたい」その想いを受けて何をすべきか、
自閉症児だけのことではなく、その家族の生き方、兄弟の生き方、それらすべてを統合して考えていかなければ、どこかに歪みが生じて誰かが負担を強いられることになる。
当時、自閉症児の扱いは、何処の施設でも困難を極めるものだった。
私は、行動療法と自閉症児の療育プログラムを組み合わせて、様々な自閉症児の問題解決法を学んでいたが、当時はまだまだ未完成で、試行錯誤の繰り返しをしているような状態だった。(鉄則は、罰を絶対に使わないということだった)
そして、実際にこのプログラムを実施するには、相応の知識を持ちセルフコントロールのできる職員がどうしても必要だった。
スタッフの育成が急務だったことと、人数的にも、多くのスタッフが必要だったために、プログラムがある程度出来上がっていても、実施できる施設は全くと言っていいほどなかった。
自閉症児療育プログラムの研修会に一般の施設職員が参加しても、うちでは無理だと口を揃えて言う人たちばかりだった。
私が学校を卒業後、何年かして知的障がい児の施設に勤め始めたとき、あまりにも何もできていなくてカルチャーショックを受けたぐらいだ。
それもそのはずだ、数年後には、知的障がい者の虐待問題で、白河育成園が内部告発され日本中で大問題となったぐらいだ。問題となった施設は白河育成園だったが、全国の施設のほとんどがこんなレベルの処遇しかできていなかったのだ。
そうした背景があるなかで、入所施設では到底できないとされてきた自閉症児の療育プログラムを実施したのが現在の「やまびこ親の里」である。
先生の言う、心理学だけやっていても、役に立たないというのは、こういうことも含まれていたのだ。
私は、3年間のうちに先生には本当に色んなことを教わった。
今でも思うことなのだが、私は先生の言うとおりに生きてきた。
先生は、カウンセラーはどう生きるかということは先導してはならないと言っていたが、きっと私に対するカウンセリングは失敗していたのだろう。
※
ノーマライズとは、障がいを持つ人が、健常者のようになることではない。
障がいを持ったままの姿がその人の姿であって、それを否定し健常者の姿に近づけようというのではない。
耳に障がいがある人がそのままの状態で健常者と同じように生活すためには、例えば手話を全ての人が使える状態になるとか、言語が活字で表示されるシステムを作るとか、つまり、聞こえないということが障がいなのではなく、聞こえない人とコミュニケーションを取る手段を日常に置かないことが障害だと考える。
車いす利用者であるなら、段差こそが障害なのであって、それがなければ何の不自由もなく移動することができる。
本来そこに居ることが当たり前の状態なのに、そこに居ることができない環境が障害なのであるから、誰でもがそこに居ることができる環境を整備するということこそ、最も大切だと考えられている。
障がいの状態によっては、一般社会の中に普通に居られる社会をつくためには、大変な費用がかかるということもある。しかし、費用がかかりすぎるからといって対象から除外していいということはあり得ない。
設備の改善ではどうあっても対応しきれない、そんな状況においてはじめて、人の手が支援として加えられるのだ。そしてその人の手による支援というのは、社会保障で補うことが当然のことであり、障がいを持つ人が、頭を下げて頼みこみ、相手がそれを了承しないと受けられないようなものであったならば、それはもう社会保障と呼べるようなものでなはい。
これは個人的な見解だが、「障がいを持っている人には優しくしましょう」などという啓蒙は、障がいを持つ人に対する重大な差別行為(人権の侵害)だと思っている。
優しい人などいなくとも、自由に生きたい場所に行き、やりたいことがやれる社会を作るからこそ、そこに平等という意識が芽生えるのではないだろうか。
「困っている人がいたら優しくしてあげましょう」
啓蒙するならこれで充分であると私は思う。
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