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よろしくお願いします。
1982年4月~高1~
----- 家族 -----
祖母74歳
父48歳/母46歳
兄24歳/義姉22歳
私15歳
祖母は、くも膜下出血で生死をさまよい、本宮の脳外科に入院していた。7月初めに退院してきたが翌月初めに亡くなる。
父は郵便局の簡易保険を担当していた。
1980年に主任になり、この頃になると保険募集による特別手当が基本給を上回るようになっていた。
兄は3月に結婚したばかりで、母屋の隣の小さな家に住み始めていた。
兄が住み始めた家は、実は私のために母が貯金を崩して建ててくれた家だった。
12畳一間のフローリングの部屋と、6畳一間の畳の部屋、私のために洋式のトイレをつけてくれて、2畳ぐらいしかない小さなキッチンもついていた。
実家の洋式トイレはここにしかなかったため、用を足すためにはそこに行かなくてはならず、夜中や朝早くに新婚家庭の家に入るのは、それなりに気を使った。
家が完成した後、しばらくすぎると、父は母が払ったお金を全額母に渡したと言っていた。
この家は、母の実姉の旦那に頼んで建てたものだ。
父は、義兄のことをとても気に入っていて、その頃は現場の仕事はほとんどしなくなっていたのだが父が無理を言って仕事を受けてもらったのだ。
仕事がとても丁寧な人で、時間はかかったが、たった一人でその家を建ててしまった。
兄は自衛隊に勤務し、実家にはいつになったら帰ってくるのかもわからなかったため、両親とも、私を実家に置くつもりだったのだ。
それに、小学生だった頃の私の姿は、両親から見たら、高校など通えるようになるはずもなく、就職して仕事ができるような人間になることなどまったく想像できてはいなかっただろう。
障がいを持つ子どもや、病弱な子どもを持つ親が、自分たちが産んだ子こどもは自分たちで面倒を見る。そう考えるように、自分たちのすぐそばに住まわせ、面倒を見ていくつもりだったのだ。
しかし、実際には私は高校へ通うようになり、兄が実家に戻って結婚し、生活を始めることになっていた。
私は、母屋の2階に部屋をもらい、小さいころに祖父を外に追い出したベランダを眺めながら生活をスタートさせた。
自分だけの部屋があるということ、それだけで心がとても明るくなった。
2階には全部で4部屋あり、南東6畳と北東3畳が続き部屋で、続き部屋の前には廊下があってベランダに出ることができるようになっていた。そこは両親の寝室になっていた。
私の部屋は、当初南西6畳の一部屋だけだったが、続き部屋になっていた北西6畳の部屋が物置のようになっていたので、勝手に荷物を移動して、二部屋とも自分の部屋にしてしまった。
北西の部屋には小さな窓がついていて、そこを開けると、隣の家の娘の部屋と、遠くに住友セメントの煙突が見えて、夜になると煙突がライトアップされていて煙が上がっているのがよく見えていた。
私は、ベッドを北西の部屋に移動し、南西の部屋にはコタツを置いた。
私は兄が大好きだった。
兄のすることは何でも魅力的に見えたし、兄が持っているものは、何でも良いものに見えた。
当然、兄のすることは何でも真似をしたかった。
一番最初に始めたのは、タバコだった。
これは、父も兄も吸っていたので、一本頂くのはとても簡単だった。
今から思えば、一本吸っただけで、バレないわけがなかったのだが。
当時は自分の匂いがどうなっているのかなんてわからなかったので知られていないと思っていた。
しかし、兄にはすぐに気づかれたようで、ジッポーやるよと言われて、いい音の出るやつをひとつもらった。このライターは、散々使ったが、今では超お気に入りのライターとして、大切に保管してある。
高校生生活のスタートは、嬉しいことや、楽しいことが沢山あった。
何もかもが自由だった。
毎週土曜日になると、父が高校まで迎えに来て、バイクで家まで帰っていた。
家に帰って昼食を取った後、近くの池にマブナを釣りに出かけてた。
父が迎えに来れない時は、義姉が車で迎えにきてくれていた。
当時、兄が乗っていた車は三菱ギャランΛ(ラムダ) 2000GTダーボ
(※リンク切れになる可能性あります)
義姉は、背が高くとても美人だったし、車はスタイルのいい2ドアスポーツクーペだったので、その車に乗って帰れるのは、ちょっと特別なことだった。
昇降口から、正門を出るまでに、友達とすれ違ったりすると、妙に得意だったりしたのだ。
#血友病#血液製剤#家族♯高校生活
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