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1982年(中学卒業)
歯科治療が一段落すると、進学が現実のこととなってきた。
すっかり元気になった私は、また新校舎へ通うようになった。
担任の先生から、郡山市に新設される養護学校高等部の話をされた。
ここであれば、成績も気にすることなく、体の心配もないと言われた。
私はものすごい恐怖を感じた。
理不尽な扱いを受けても我慢するほかなく、24時間監視されて自由の全くないこの環境に心底うんざりしているのに、またそんなところに入れられるのかと。
そして、絶対に嫌だと答えた。
私の意思が伝えられると養護学校の教頭や、市議会議員までもがそこに入らないかと実家まで来て両親を説得したそうだ。養護学校に入れば、これまでと同じように、食事の世話を家庭でする必要もなく、安全に卒業することができると、
何故そんなに養護学校のスタッフが私を入学させたいのかわからなかったが、嫌だと言っているのに迷惑な話だった。
両親からは養護学校に入った方がいいのではないかとだいぶ長々と話をされたが、頑なに嫌だと拒否した。
そして、両親も担任も養護学校進学を勧めることは諦め、地元で通えそうな一般の高校を探してくれることになった。
卒業間際の模擬試験では、100点満点中、平均で40点ぐらいの成績だった。
担任が私の希望する高校へ電話をかけ、病気のことを話し、受験を希望している者がいるのですがと問い合わせをしたところ、「40点」も取れる生徒さんでしたら、もっとレベルの高い高校をお勧めしますと言われた。福島県の高校入試は50点が満点だったのだ。話を進めていくと、そういうことでしたらと笑い話になって電話を切ったそうだ。
その後、私の病気のことについて、詳しく高校側と話し合い、以下のことを確認してくれた。
成績に問題がなく試験に合格した場合のことである。
・体育には全く参加できない
(見学だけで落第しない最低限の評価を与える)
・怪我などをすれば緊急の事態になることもある
・その他学校行事でも病気に配慮した対応をお願いしたい
入試の合格率などは何も聞かされていなかったが、私の年代は丙午(ひのえうま)の年で、子どもの数が極端に少なく、高校では定員割れするだろうということは聞かされていた。
「普通高校に入りたいと言ったのはあなた自身なんだから、がんばって合格するようにちゃんと勉強しない」
そう言われただけで、現在の成績なら大丈夫だとも、もっと頑張らないとダメだとも言われなかった。
中学3年の時のことは、何をしていたのか何故かあまり覚えていないのだ。
写真もほとんど残っていないので、撮影自体やれない状態だったのだろう。
卒業式が終わると、花束や寄せ書きの色紙などをもらい、握手してくださいとか、手紙を書きますので読んでくださいとか、色んなことを後輩から言われた。その中には、私にラブレターを書いてくれた子もいた。
私は終始笑顔でいたが、みんな泣いていた。
卒業式まで病院に残っていた3年生の男子は、たった3人だった。
自分の記憶に病院でのことがちゃんと残るように、病院の中をひとまわりしてから帰ることにした。
病院の屋上は外にはいつでも出ることができた。
エレベータのドアは、とても重々しいドアで、開閉の際にガッコーんと音が出るような物だった。動きもゆっくりで、停止の際にも上下に揺れていた。
屋上の外にはお金を入れると使うことができる望遠鏡がおいてあったが、誰がいつ壊したのか知らないが、いつからかお金を入れる部分が分解されており、お金を入れなくても普通に見えるようになっていた。(お前がやったのかと誰かに言われたことがあったが、さすがにお金を盗むような悪いことはしたことがなかった)
私はよく一人でここにきて、遠くにある橋を眺めたりしていた。
エレベーターの前にはちょっとしたスペースがあり、灰皿がおいてあった。
そこは、中学の先輩たち(血友病の3人)が、よくラーメンの出前を頼んで食べていた場所で、滅多に誘われることはなかったが、私も何度か一緒に食べたことがあった。
そのラーメンは、とても美味しかった。
もちろん病院では禁止されていることだ。
友情ラインは学院大学のセツルメントの人たちが作り始めたアカマツ林の散歩道だ。
時々、ヘビがでたりしていた。
年々道が増えたり、ベンチがおかれたり、屋根付きの休憩所ができたりと少しずつ整備されてきた。
ちょっとした橋の下に、湧水が出ていた場所があって、そこにはアカハラというイモリが沢山いて、時々捕まえて虫かごに水を入れて眺めていたりした。
フェンスが張られた防火水槽があり、先輩たちが時々魚釣りをしたりしていた。私もやりたかったが、道具を手に入れることが出来なかったため、一度もやったことはなかった。
何度も車いすレースをして、転んで怪我をして怒られた。
セツルメントに大好きなお兄さんがいて、いろんな話を聞かせてもらいながら何周も車いすを押してもらった。
西多賀養護学校の屋上は、病院の屋上よりずっと高かった。
外への出入り口のサッシには鍵がかかっており、普段外には出られなかったが、時々鍵が開いていることがあり、何度か人に見つからないように外に出てみたことがあった。
天気のいい日は眺めがすごくよくて、遠くの海が綺麗に見えていた。
エレベーターのドアが開くと、屋上には、机や椅子が重ねられており、あの日記を読んだ日とは全然違っていて、物がごちゃごちゃになっていた。
外への出入り口のサッシにはちゃんと鍵がかかっていた。
ぼんやりと外を眺め、もう二度と此処へは来ないなと思った。
歩いて病院をまわるのは大変だった。
私は何人もの友達を見送ってきた。
何人も何人もだ、後輩もいた、先輩もいた、同級生もいた。
仲の良かった人も、嫌いだった人も、みんな退院して出て行った。
その中には、たった一人の私の恋人も居た。
そして、ようやく自分が見送られる時が来たのだ。
この日は、迎えに来た母と一緒に、電車で家まで帰ることになっていた。
いつもなら、バスで長町まで行き、電車を乗り継いで仙台駅から特急で帰るのだが、荷物が多かったことと、せっかく退院したのに、家に帰るまでに足が痛くなったりしたらよくないということで、仙台駅までは八木山を通ってタクシーで行くことにした。
帰りの電車の中で、「思い出ノート」を取り出して読んだ。
このノートは、寄せ書きの色紙とは別に、メッセージを好きなだけ書いてもらうために用意したものだった。
1ページ目には自分の連絡先を書いて、必要な人にはアドレス帳に転記してもらい、続くページには私へのメッセージを書いてもらった。
書いてくれたほとんどの人は、自宅の住所と電話番号を添えて、私との思い出やメッセージを書いてくれた。中には2ページ分も書いていた人もいた。
いろんなことが書かれていたが、一番印象にのこっていることだけ、思い出して書いてみる。
友達と、病院スタッフを回ってノートは手元に戻ってきた。
そのノートを持って、養護学校の職員室へ行き、勉強を教わった先生たちにも一言お願いしますといってひとりひとりに書いてもらっていた。
放課後の職員室には居ない先生も居たが、それはもう仕方がないと思ってあきらめ、居る先生にだけ書いてもらって、お礼を言って職員室を出た。
そして、職員室から出たところで、O先生という先生に会った。
先生からなんと声をかけられたのか、よくは覚えていないのだが、先生と最後に卓球をして行かないかと誘われて、一階下のプレイルームに行って、卓球をすることになった。
そんなに気軽に、卓球をしようなどと声を掛けてくるような先生ではなかったのだが。
この先生には、一度も担任をしてもらったことがなかった。国語の教員であったが、国語を習ったこともなかった。
私の2つ上の血友病の先輩が、この先生とずっと関わっていて、とても怖い先生だと言うことを聞かされていた。
授業を受けることもなく、話もほとんどしたことがなかったが、球技大会などで、私はいつも卓球を種目に選んでいたので、卓球の上手なこの先生に卓球の指導は何度か受けたことがあった。
この先生がどう怖いかというと、この先生は、血友病の患者であっても、悪いことをすればげんこつで頭を殴ったり、平手で頬をぶつような先生だったのだ。
そして、この先生は、右手に麻痺があり、文字を書くのも卓球をするのも左手一本だった。
何故私が、卓球をしようと誘われたのかは分からなかったが、先生は、ラリーの応酬を楽しみたかったようで、本気で打ち込んできたりはしなかった。
私は3年間、ずっと球技大会では卓球を選び、一度も優勝をしたことはなかった。
先生とラリーをしていると、
メモのやり取りを始めたばかりの頃、球技大会は何に出るの?と聞いてきたので、メモの裏に「卓球」と書いたことを思い出した。
そして、彼女も卓球を種目に選んでいた。
私達は、お互いが対戦する前に二人とも負けてしまい、試合をすることはなかったのだが、そのことが、日記に書いてあったのだ。
「負けてもいいから、試合をしたかった」そう書いてあった。
それと、球技大会の練習をするため、何度かここで彼女と卓球の手合わせをしたのだが、日記に書かれていた内容を思い返すと、彼女はよくあんなに無表情で私と卓球ができたなと、そんなことを考えていた。
私は、先生にお礼を言ったあと、「ノートに一言書いていただけませんか」とお願いすると、卓球台の上にノートを載せて、胸のポケットからボールペンを取り出し、簡単には読めないような達筆な文字でメッセージを書いてくれて、ノートを閉じて私に渡した。
もう一度お礼を言って、病室へ戻ってからノートを開いてみた。
そこにはこう書かれていた。
「重い病気があったり、障害があったりすれば、普通になるだけでとても容易なことではない、ましてやそれ以上を望むならばさらに大変な努力が必要になる」
片手卓球を見て頂いた日
ノートを読み返しながら、この先生だけが、何故容赦なく血友病患者の頬を平手で叩くことができたのか、どんな想いで生徒と対峙していたのか、そして自身は、どれほどの苦難を経てそこに立ち、私と卓球をしてくれたのか。
「頂いた」と書かれている。
私が、どれほど馬鹿なことばかりやって、病院のスタッフにも、学校の先生にも迷惑をかけ続けてきたのか、この先生が知らないはずがない。
そんな私に対して、「見て頂いた」という敬語を送ってくれた先生。
なんと重い一言だろう。
私の7年間の病院生活は、ここで終わった。
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