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1978年
(小学6年生)
----- 恋愛 -----
西多賀病院には、定期的にボランティアの人たちが来ていた。
東北学院大学のセツルメントだ。
手品ショーや、水中プロレスなど、いろんなイベントを開催してくれたり、勉強を教えてくれたり、散歩に連れて行ってくれたりと、本当に楽しい時間を頂いていた。
また、病院の北側に赤松の林があったのだが、そこを開拓して散歩道を作り、「友情ライン」という名前を付け、患者たちの安らぎの場を作ったりもしていた。
ボランティアの人達は、病院のスタッフとは違い、私のことを先入観をもつことなく見てくれたので、一緒にいるととても気持ちが和らいで、楽しく過ごすことができた。
いつから病院に来なくなったのかよくは覚えていないのだが、ある時、仲良くなったメンバーの一人から手紙をもらったことがあって、もう行けなくなったと書かれていて、この世の終わりが来たような残念感を味わったことを覚えている。
ボランティアには、学院大学のセツルメントだけでなく個人で来ている人が一人いた。
後で知ったことなのだが、この人は宮城教育大学に入り、途中で目的を見失って退学し、西多賀病院にボランティアに来ていたと言っていた。そして、その後、再度大学に入り直し卒業後は、教職には就かずに西多賀病院で生活指導員として働き始めることになる。
入院して間もなくの頃だったと思うが、この人は、私たちに映画を観せてくれた。
2階建ての病棟が3棟並んで建っていたのだが、病棟の北側の壁に屋上から巨大な白い布を垂らしてスクリーンを作り、上映会を開いたのだ。(おそらく白い布は病院で使っていたシーツを縫い合わせて作ったのではなかっただろうか)
誰がこの企画を手伝ったのか分からないが、企画してから実行するまでには、相当な苦労があっただろうと思う。(映写機など、どこから借りてきたのだろう)
病院側も了承し、患者の多くは病室から中庭に出て、スクリーンを見上げて映画を観た。
映画のタイトルは「幸せの黄色いハンカチ」だったろうか・・とも思うが、何か違っていたような気がする。
その後、この人は、学院大学のセツルメントが来なくなったのと同時に姿を見せなくなった。
私が6年生になった時、指導員になりましたと、自己紹介され、あの時の!と、すぐにわかって嬉しくなった。
私にとっての病院での生活は、退屈との闘いでもあった。
毎日同じ友達と同じ病室で過ごし、同じスタッフに同じことを言われながら生活する。
一度定着したレッテルは、スタッフが変わろうとも引き継がれ、何ら変わることがなかった。
そんな中、何かをしてくれそうな人が、スタッフに加わったことは、なんだかワクワクしたのだ。
病棟内の指導員ということではなく、病院全体の児童に対する指導員だったため、私の病棟に来ることはあまりなかった。
たまに見かけると、かまって欲しくて、声を掛け、たいして聞きたいこともないのにとりとめもないような質問をして話に付き合ってもらっていた。
いつも口元はニコニコしているのだが、目だけはどこか笑っていないような、こちらの目的が見透かされているような、少なくとも嘘は言えないなと思わせるような人であった。
そして、着任早々にこの人は、病院で性教育のビデオを子どもたちに見せるという、大胆なことを企画し、病院のスタッフを驚かせた。だいぶもめたようであったが、結局は病院側も折れて、提案を受け入れることになった。
そして、男子も女子も、まったく同じビデオを別々の部屋で同時に見せる、ということをした。
この時の衝撃と言ったら、今でも忘れられない。
私は、子どもというものは、大人の男女が結婚して、一緒の家で暮らし始めれば自然にできるものだと思っていたのだ。
だから、一年前に子どもを作ってはいけないと思った時、同時に一生結婚もしてはいけないと思っていたのだ。
小学6年生にもなって、そんなことも知らなかったのかと、後になってみんなから馬鹿にされるが、逆に、なんでそんなことをみんなが知っていたのか疑問に思ったぐらいだ。
そんなことがあってから、結婚とか、恋愛というものを、少しずつ考えるようになった。
そして、結局のところ、恋愛ができても結婚ができても、子どもをつくらない男と結婚する相手なんているわけがないという結論に至り、そのことだけが理由ではないのだが、少しずつ他人を避けるようになった。
1978年~1979年
(小学6年生~中学1年)
1年前までは、バレンタインデーにチョコをもらうと
とても嬉しかった。
おやつとしての価値もすごく高かった。
しかし、子どもをつくらないと決めた時から、
自分は結婚ができないので好きになってもらっても仕方がないと思っていた。
血友病を知らない人間の「好きです」とう言葉は、どういう病気かを本当に知れば、やっぱり違う人を好きになりますという、残酷な現実を意味する。すくなくとも私にはそうとしか思えなかった。
始まらない方がずっとましだ。
チョコレートを沢山もらったことを、何人かの看護師に冷やかされた。
「モテる男はつらいね~」
単純に私が喜んでいると思っているのだろう。
こいつらは、人の気持ちが何もわかっていないと心底呆れた。
そして、ほとんど口も利かなくなった。
私は、何かをしなさいと言われたことに対し、
「分かりました」と答えてやりたくないことはやらない人間になった。
「分かったと言ったでしょ何でやらないと」と言われたことには
「すいません」と謝るだけでそれ以外の会話は一切しなくなった。
ある時、指導員と恋愛の話になった時に、皮肉交じりに話したことがあった。
いくらあなたでも、きっと自分の悩みは解決できないだろうと
そういう意地悪な思いがあったのだ。
「どうせ、何をやったって、結婚なんてできるわけがない」
彼は、笑顔で話を始めた。
目も笑っていた。
「あのさ、女の人って、そういうんじゃないんだよ。子どもがどうとか、病気がどうとか、好きになってしまったら、どうしようもなくその人のことが好きになってしまって、もう離れられなくなってしまう。ドラマでもあるでしょ、貧乏で仕事もせず、酒を飲んで暴れるような男と別れないでくっつている人、そういうことなんだよ。ようはさ、愛される人間になればいいってだけのこと。それには、決まった条件なんてないんだよ。顔がいいってだけだっていいんだ、とにかく好きで好きでたまらない、そう思われる人間になればいい」
ああ、この人はやっぱりすごい。
敵わないと思った。
この話は、ここからの自分の人生の基本になった。
「とにかく好きで好きでたまらない、そう思われる人間になればいい」
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