病気と私 7

1976年 小学校4年生(9歳)

主治医=先生

地元の病院=車なら20分(15kmぐらい)、バスで40分、電車だと乗るまでに15分歩き、電車で3駅目、降りてからも20分ぐらい歩かないといけない距離にあった。


----- 病院での生活 -----

病院での私は、どちらかと言えば「病人ではない人」に分類されてた。

他の子どもたちは、手術を受けたりたり、内服薬を毎日飲んだり、リハビリに通ったり、治療用の装具を身に着けたりと、病人らしく治療を受けていたが、私は、出血さえしていなければ、何もすることがなく、ただ「安静にしているのが治療」というおかしな世界に住んでいた。

今から思えば、具合の悪い所がない子どもに「安静にしていなさい」は拷問に近い。

出血すれば「大人しくしていないからだ」と怒られたので、少しぐらいの出血は隠していた。いよいよ耐えられなくって医者に診てもらうときには、かなりひどい状態になっていた。

そしてその度に「なぜもっと早く言わなかったのか」と怒られたが、理由は言わなかった。

一般常識を知らず、学校の成績も悪く、身の回りの整理もできず、安静にしていろと言われても言うことを聞けず、挙句に、洗濯物を病院のクリーニング出すことを頑なに拒む変な子どもであった。

病院でのクリーニングサービスは無料だった。しかし、他人の排せつ物が付いたものと、同じ洗濯機で洗濯されるのがどうにも嫌だったのだ。(洗濯物の回収かごを見てショックを受けたのだ)

下着も、衣服も他の子どもはみんな病院のクリーニングに出していたのに、私だけはそれを拒んだため、母が毎週家に持ち帰って洗濯していた。

そして私は「自分の病気すら理解できない馬鹿で偏屈な子ども」というレッテルを貼られた。


----- 小学4年生の夏休み -----

近所の幼馴染と自転車で競争をしていて、ゴール地点で止まれずに自転車置き場に突っ込み、ハンドルが腹部に当たって内出血するという事故を起こした。

自転車には乗れるようになったばかりで、自転車に乗るのが楽しくて仕方がなかった。ぼんやりとしか記憶がないが、近所の友達に借りて遊んでいるうちに、乗れるようになってしまったんだろうとおもう。

(小さいころのことを思い出すと、三輪車を買ってもらってことがあり、喜んで遊んでいたのだが、転んでけがをしたせいで、すぐに祖父がどこかに隠してしまい、どんなに探しても三輪車はみつからずに遊ぶことができなくなってしまった。そんなこともあって、なおさら自転車は私にとって魅力的な遊び道具だったのだと思う)

自転車の競争は、住友セメントの社員用団地を一周するというというものだった。

競争相手に年下の女の子が混じっており、女の子にだけは負けたくないという一心で、ぎりぎりまでブレーキをかけずに、ゴール直前でブレーキを思いっきりかけたが、止まり切れずに突っ込んでしまったのだ。

(昔の自転車のブレーキは、伸びたワイヤーの調整なんてしている人はいなかったし、壊れていなくてもかなり効きは悪かったのだ)

怪我をした理由を聞かれて「ブレーキが効かなかった」と言い訳したが、「ブレーキは壊れていなかった」と後で言われても、それでも「その時はブレーキが効かなかったのだ」と言い通した。

自分では、ブレーキの効きが悪かったことは知っていたし、つまらないことで馬鹿なことしてしまったとつくづく反省していた。

夏休みが始まったばかりで、病院から外泊して家に帰って来たばかりだったのだ。

このせいで、せっかくの夏休みを病院で過ごすことになってしまう。

具合が悪いことより、病院に連れていかれる・・・私にとってはそのことの方が重大な出来事だったが、私の体に起こっていたことは、そんなことを考えていられるようなものではなかった。

それほどまでに、私の考えは幼稚で、とっさの判断力もまるで足りなく、病院のスタッフが言うように、自分の病気の危険性をまったくわかっていない子どもだったのだ。


----- 病状 -----

自転車置き場に置いてあった自転車の中に突っ込んだので、色んな所を打って怪我をした。顔や手足の傷もひどかったが、一番酷かったのは腹部だった。

腹部の状態からして、衝突したスピードの勢いで右側にハンドルが曲がり、腹部にくいこんだとものと思われた。

午前中に怪我をしたので、昼休みに帰ってきた母が地元の病院で製剤の点滴治療を受け、夕方には家に帰ってきた。

私はそのまま横になって夜まで寝ていた。

夜の8時ぐらいになり、母が患部を確認してみると、止血しているどころか内出血が広がり腹部がどんどん黒くなってしまっていた。慌てた母が西多賀病院に電話するとすぐに病院に連れてくるようにと言われた。

父は車の運転免許を持っていなかったので、車で連れて行ってくれる人はいないか話し合い、本家の長男に頼んで車で仙台の病院まで連れていってもらうことになった。

(当時は救急車で福島から仙台まで高速道路を使って搬送してもらうという考えはなかった。たぶん頼んでも無理だったと思う)

翌朝早々に出かけようということで話がきまり、本家の長男は夜の間に病院までのルートを地図で下調べしてくれていた。

夜が明けるとすぐに実家まで私を迎えに来てくれた。車に乗せられた私をみて、「これは間に合わないかもしれないな」とそういって車を出したそうだ。

そのころには私はもうぐったりしてたのだ。

病院には、一度も道を間違えずに到着できた。病院の近くまで来た時に、あそこが病院だと話をしていると、一度も口をきかなかった私が、「病院まで来たの」と言ったそうだ。


病院の玄関には、ストレッチャーが用意されており、すぐに診察室へ運ばれた。

診察室で服を開いてみたら、首から、大腿部まで、そして背中の方まで真っ黒になって腫れあがっていた。

その場にいたスタッフは、全員言葉を失ってしまい、誰も何も言わなかったそうだ。

(全員もう助からないとおもったらしい)


当時は、患部を開くという選択肢はなかったため、内部がどうなっているかは触診で確かめる以外に方法はなかった。エコーもCTも当時は存在してない。

(開けば今度はその出血を止められなくなる)

第8因子血液製剤で止血する以外に方法がなかったので、点滴をして待つしかなかった。


母は先生から、助からないかもしれないと言われたそうだ。


しかし、時間の経過とともに、腫れは引いてきて、一命をとりとめることになる。

この怪我でどこがどうなっていたのかはわからないが、私は食事ができなくなっていた。

何も口にしなかったため、栄養剤の点滴が加えられ、数日間は点滴だけで過ごした。

母から、何か食べたいものはないか、何なら食べられるかと何度も聞かれていたがその都度何もいらないと言っていた。

母は、「母の家」という、病院で付き添いをする家族が利用できる施設に泊まり、日中は病院で看病するという日が続いた。

福島の家から西多賀病院まで毎週通っていた母は、バス停から病院まで歩いてくる道に豆腐屋があったことを思い出し、朝早くに豆腐屋に寄って豆腐を一丁を買って病室まで持ってきた。

その豆腐を私に食べさせたところひと口、ふた口食べたそうだ。

そこで、やっと食べ物を口にしたと喜んだ母は、毎朝豆腐屋によって豆腐を一丁買って病棟まで持って来るようになり、毎日私に豆腐を食べさせ続けた。

ある日、「もう豆腐はいらない」と言って食べなくなったそうだ。

私は今でも「冷ややっこ」は食べられない。そしてこの文章を起こすために母に話を聞いて、なぜ冷ややっこが食べられなくなったのか、53歳にして初めて知った。


母の話では、当時学級の担任であった女性の先生が、「ご飯が食べられるようになったと聞いたので」といって、薄味のたけのこご飯を作ってきてくれたそうだ。そしてそれを私が美味しいと言って食べたらしい。世の中には本当に優しい人がいる、あのご飯の味をまだ覚えている。母はそう言っていた。

(話を聞いているうちに、ぼんやりとではあるが、そんなこともあったと思いだした)


そして、この時に使用した大量の血液製剤により、第8因子製剤に対する抗体(インヒビター/Inhibitor)が発生したことが、だいぶ後になってからわかることになる。



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豪雪地帯の田舎に古い家を買い、うさぎとねこと暮らしています。 主な内容は、ウサギとネコの動画と、病気と付き合ってきた自分史になります。 動画は、Youtubeにアップロードした動画の紹介になります。 ※コメント欄はご自由にご利用ください。

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