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母から聞いた話と自分の記憶
私は1967年2月に生まれました。
----- 病気の診断を受けるまでの経緯 -----
1968年1月正月の時
(歩き出すのが早い子どもで誕生日前に歩いていた)
仏壇にあった鐘を叩く棒を咥えたまま歩いていて転び、歯茎から出血する。
3日間が過ぎたが出血が止まらず、郡山市の小児科病院に通院する。すぐに福島医大に行きなさいと紹介状を渡されるが、家に連れて帰ると、姑から仕事が繁忙期なので落ち着くまでは病院になんて連れてはいけないと言われ、そのまま病院に行かずに家においた。
その後、歩き出していたこともあって、体中の関節が内出血を起こしていたり、ぶつけた場所が皮下出血を起こしたりしてひどい状態になっていった。何もしなかったためそれぞれの部位の出血はほとんど止まることはなかった。
仕事が一段落して病院に連れて行く時、満開の桜を見ながら病院に向かったそうだ。
つまり、およそ2ヶ月もの間、治療を受けずに置かれていた。その結果私は死にそうになっていた。
福島医大では、当初検査のため一週間は入院が必要だと言われたが、一週間では退院できずに2週間入院することになった。
その間に検査は2回行われ、最初の検査で、「血友病」である可能性が高く、そうであった場合は5歳まで生きた子どもはいないと言われる。
病院で検査入院ということではあったが、すでに死にそうになっていたため、すぐに母親からの輸血を受けかろうじて命をつなぐことになった。
その時のことを母の言葉のままに記述すると、検査結果を伝えられる時、診察室には10名以上の若い学生らしい医者が並び、一緒に医師からの検査結果を聞いていたとのことだ。
2週間の入院中に、若い医師たちが廊下を通り過ぎる際に、「しぶといですね・・・・」と話していた言葉が、記憶にずっと残っていたそうだ。当時の母は「しぶとい」という言葉の意味すらわからなかったが、その言葉が何度も頭をよぎり、どうにも忘れられなかったと言っていた。
結局、2週間を生き続け、2度目の検査を受けて、間違いなく「血友病」という病気で、現在は薬も治療方法もないので、とにかく輸血する以外に助ける道はないと言われて退院してきた。
母はその時、医者の言った「5歳まで生きた子供はいない」という言葉を聞き入れることなく、「絶対に死なせない」「死なせるわけには行かない」そのことだけを思っていたと言う。
その後、地元の病院で輸血の治療を受けることになるが、血液は常に母親が提供していた。
地元病院の医師は、念の為に、町にある他の病院でも診てもらいなさいと紹介状を書いてくれて、もう一箇所他の病院を受診するが、輸血以外に命を維持する手段はなく、続ける以外にないと言われる。しかし、そのおかげで、片方の病院が休みの時でも、治療を受けられる状態にはなった。
一回の輸血量は50mlで、輸血をすると、その都度出血は落ち着いていた。
私が「痛みで夜も眠れずに、睡魔が痛みを超えるまで苦しんだという記憶だけが残っている」と母に話すと、「それはそうだ、夕方に出血すれば次の日まで病院には行けない。日曜日も病院は休みだから行けない。一度関節内出血を起こすと、痛みのため火が付いたように泣き続け、何をどうやっても泣き止まなかった。冷やしてもダメ、温めてもダメ、患部に触れると更に強く泣き出すので撫でることもできない、どうしようもなくなって、腫れあがった所に息をフーフーと吹いていたんだ」と
春夏秋冬、一年中そうやって過ごしたのだ。
-----治療薬(血液製剤の誕生)-----
4歳になった頃、仙台の病院から臨時で来ていた先生に診てもらう機会があった。その先生は、東北大学病院に森先生という血友病を専門に研究している先生がいるので、私が手紙を書くのでそれを持って仙台の病院に行きなさいと言われる。
頂いた手紙を持って東北大学病院で診察を受けたが、検査を受けただけで、治療薬はまだ存在していなかった。
幼稚園に入学する直前ぐらいに、いつもの輸血では効果が得られずに、どんどん状態が悪化してしまい、どうしようもなくなって東北大学病院に行くことになった。この時、初めて父も同伴して病院に向かった。
(父はこれまで、私に血液を提供することも、病院に付き添うことも全くなかった)
大学病院では、「血友病の治療薬ができているのですぐに治療に入ります」ということで、血液製剤の点滴を受けた。
製剤は、翌日には効果を発揮したが、このまま家に帰ったのでは死んでしまうということで、製剤投与の治療を継続することになった。
大学病院ではベッドが空いていなかったために、近くにある大きな病院に入院することになった。
私はこの時のことをよく覚えている。大学病院から他の病院へ行く途中、大きな横断歩道橋があり、そこの上から車が行き交うのを眺めていた。田舎町しか知らなかった私は、自動車も珍しかったし、その風景がとても綺麗に思えたのだ。
病状は日に日に良くなっていったが、大きな問題が起こった。
治療費である。
宮城県を含む東北各地では、この治療に対する医療費控除の制度が実施されていたが、福島県ではその制度が存在していなかったのだ。
入院している間に使った薬は13本、その分を全て支払わなくてはならなくなってしまった。
医師も、他県の制度までは知らなかったために、当たり前のように薬を使用してしまったのだ。
医師からケースワーカーに相談に行きなさいと言われて、すぐに相談室に向かった。
その時担当してくれたのは女性のケースワーカーだった。母はそのケースワーカーの名前を今も覚えている。
彼女は、これから福島県庁に電話しますが、一般の職員では話にならないので、県知事に直接お話しますので、そこで聞いていてくださいと言った。
電話口にはすぐに県知事が出て話を受けた。
「現段階ではそのような申し入れがなかったため、制度はできていない。したがって、今請求されている医療費の負担はできない。しかし、他の県で行っていることを福島県ではやらないというわけにはいかないので早急に制度を作り実施します」との回答があった。
この時の、ケースワーカの毅然とした態度に母はとても驚いたそうだ。
そして、多額の医療費を支払うことになった父は激怒していたそうだが、父が一人でやりくりをして医療費は全て払ったそうだ。
どこからどうやってお金を集めてきたのか、母も全く分からないと言っていた。
私は、福島県で一人目の医療費受給者となった。
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